新説!所JAPAN 皇居に残る江戸城 巨大都市東京は、家康のおかげで誕生した!?4/20
日本のどこよりも巨大な天守 「江戸城」
現在の皇居外苑にあった徳川家康が建てた江戸城の天守は、当時、日本最大級の高さを誇る。
幕末の暗殺事件「桜田門外の変」で有名な”桜田門”
歴代将軍が富士山や江戸湾を眺めた”富士見櫓”など
当時の建物が多く残り屈指の観光名所「皇居東御苑」
江戸城の天守は、江戸時代に失われたまま…皇居がお城だったことを知らない人も!?
城郭考古学者:千田嘉博
家康が建てた江戸城の高さは、約68m
大阪城54m 姫路城46m
国会議事堂65m 109渋谷50m 東京駅35m
房総半島からも当時、見ることができた。
1590年頃、家康が城を建てる前、入り江や川が入り乱れる湿地帯で巨大のな城を作るには不向きな場所でした。
日比谷まで海が入り込み東京が目の前まで迫る土地柄だったが約3万人に人員を使い埋め立て江戸城を建てる。
「桜田門」
石垣の隙間に小さい狭間がある。
狭間:銃や槍で敵を狙うため城壁などにあけられた穴
この狭間は、進化系で後の時代には大砲など威力が多き息吹が出てくるため石垣の裏で安全を確保新柄鉄砲を撃つ
石垣なので大砲の攻撃などにも強く敵に見つかりにくい。
家康の仕掛
- 何重もの枡形で敵を絶対侵入させない
枡形:門と門の間の空間に敵を足止めさせる防御施設
桜田門を抜けてもすぐ右に門が作られ、三方向から攻撃し一網打尽にすることができる。枡形は、織田信長が考案したといわれ日本全国の城にみられる仕掛けだが、初期の江戸城にはあるしかけが…
3年前に発見された”江戸始図”家康が最初に作った江戸城の絵図
江戸城は、260年の間に歴代将軍がもにゃ建物などを作り変えてきた。
家康が建てたころの江戸城は、資料が少なく詳細は不明だった。 - 天守がいっぱいあった。(姫路城とほぼ一緒)
連立式天守は姫路城で試し江戸城で完成させた最強の構造 - 江戸城は、なぜ湿地帯に作られたのか?
日本橋川クルーズ(船宿 さわ浦)
所要時間90分~ 貸切50000円~水路に秘密が…
小名木川
家康が江戸を披く頃に人工的にひらいた運河
千葉から塩を運ぶために家康が作った人工の川
海沿いの城を建てることで物資を運ぶ水路を作りやすくした。 - 石垣の謎のマーク
神保町あたりに江戸時代の堀の石垣が見れる。
石垣の岩に彫ったようなマークがある。
幕府が各地の大名に銘じてつくらせたため各地の藩のマークが
各大名の資金と人員で石垣を作らせることで大名の力を削ぎ、さらに江戸も発展できるようにした。
江戸では石が取れないため伊豆半島から運んだいたため時化などで海に沈むこともありとても貴重だった。
そのため盗む者もいたため石を彫りマークを付けた。 - 堀の形を無減に拡大できる渦巻き型にした。
”の”の字の水路で江戸をどこまでも広げれるようにした。
1608年頃は、の+1周だったが1644年後にはの+2周まで広がった。
町は5倍になり、人口は約100万人に…
当時のロンドン約86万人 パリ約54万人
豊臣秀吉が全国から労働者を集め大坂城の西側の湿地帯を埋め立てて城下町を整備したことに影響を受けと思われる。 - 日本橋のしかけ
櫓:城に来る敵を見張る高い建物
日本橋の町の建物に櫓を設けていた。
江戸の町もすごいと思わせる効果もあり、庇もでかくアーケードにもなっていた。
爆破一切費用も出さずに建てた町人に”将軍に会えるチケット(特権)”を配布 - 天守は建てなかった!?
江戸城の天守は、初代家康から~三代家光まで将軍が変わるごとに建て替えていた。
今でも皇居に残る四代将軍”家綱の天守台”は、加賀藩の前だけが御影石で造らせてたもの
デザインも決まっていたが360年以上 江戸城の天守は建っていない。
江戸東京博物館:明暦の大火・罹災市街の図
今でいう文京区・千代田区・中央区・港区がほぼ燃えたことに
三代家光の天守も消失 再建計画がスタートし天守台も造られた。
家臣の保科正之がお城よりも城下の方を助けようと提案
保科正之:家康の孫にあたり四代目将軍家綱の補佐役
四代目家綱になっても天主の不必要さと街の復興にその建築費を注ぐべきだと提案
約100億円
人が集まる寺社を江戸城の堀の外側に移築 浅草や赤坂の原型となる寺町が生まれた。
江戸城のあと 1610年から築城開始した「名古屋城」
戦のための天守作りから政治のための天守作りをし小天守を一つだけにした。家康の思いを保科正之を継ぎ天守造りよりまちの発展に力を入れたと思われる。
本格的に江戸城を作り始めたのは”関ヶ原の戦い”の3年後
ほぼ天下を獲っているにもかかわらず心配性の性格!?
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