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新説!所JAPAN 戦国史上最強のシングルマザー・淀殿

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新説!所JAPAN 戦国史上最強のシングルマザー・淀殿8/24

淀殿の簡単講座
淀殿こと通称・ちゃちゃで織田信長の姪
20歳の時に52歳の豊臣秀吉の側室に入り、秀頼という跡継ぎを授かる。
秀吉の死後は、秀頼を守るため女手一つで徳川家と戦う最強のシングルマザー
現代風の美女だったといわれています。
当時の平均身長150㎝前後だったといわれる中、身長168㎝長身

「大坂城」

天下人秀吉の城として名高い大坂城
淀気味が秀頼を産んだ場所であり、夫亡きあとは事実上は、女城主

大坂城ミステリー
現在の大坂城の天守は、秀吉が作ったものではない
1583年 豊臣秀吉 大坂城 築城
1615年 焼失
1626年 徳川忠家 大坂城 築城
1665年 落雷で焼失
1931年 昭和に再建された大坂城

現在、蓋をされた円柱
地下にある石垣が淀殿も見ていた石垣
徳川家が埋めて建てたため地下に存在する。

第1章「跡取り息子を守れ!シングルマザーの決断」

極楽橋、豊臣時代とは全く違うもの
当時は、2階建てで豪華絢爛な特別な橋だった。
徳川家が豊臣家の栄華の象徴として秀吉亡き後にスゴ取り壊そうとしたが淀殿が移築

滋賀県「竹生島」

琵琶湖の北部に浮かぶ小さな島

165段ある祈りの階段
朱色が鮮やかな三重塔

宝厳寺:古来より観音信仰の聖地
ここに極楽橋が移築されている。

国宝の唐門が移築した一部

当時は、まだ豊臣政権時代
家康は、豊臣家に仕えている重臣の一人

秀吉の死後 関ヶ原の戦いの3か月前
秀頼は、まだ小さかったので天下の実験は、家康がほぼ握っていた。

当時、家康が大坂城に来た時に極楽橋を通って城に入ったという記録がある。

その時、家康が見たものが観音堂の中にある豊臣家の家紋・桐紋と菊(天皇家の象徴)
豊臣家と天皇家が国を治めている象徴

秀吉は、関白としての仕事行うため朝廷と深いつながりがあった。
大坂城から京都へ赴くために造られた橋が極楽橋

この橋をみた家康は、すぐにこの橋を壊すよう指示
秀頼が小さかったためここに残すより移築して大きくなった時に元に戻すそうとしたが1600の関ヶ原の戦いで徳川家が勝利し徳川の天下になり元に戻す夢は途絶えた。

大坂の陣
1614年 大坂冬の陣
秀頼 当時21歳
淀殿は、自ら甲冑を着て兵の陣頭指示していたともいわれる。
息子を表に出すことを拒んでいた。

秀頼は、実は…秀吉の子供ではなかった?

第2章「世紀のスキャンダル!秀頼は秀吉の子ではない!?」

①体格

秀吉の身長は、140~150㎝
秀頼は、大きくなって190㎝ぐらいあったといわれている。

②妊娠時期

1593年3月8日 秀頼誕生
1592年11月4日ごろに妊娠
この時期秀吉は、朝鮮半島に攻めていく文禄慶長の役を起こしてる。
佐賀県唐津市の肥前名護屋城にずっといたことが分かっている。

平塚滝俊書状
肥前名護屋城にいた家臣が書いた手紙に「淀気味が来ているらしい」と記述があるので妊娠時期に秀吉と会っていたというのが定説。

淀殿を見れる立場の物ではなく別の女性と見間違えたと近年では考えられている。

③正妻への手紙

秀吉が正妻へ送った手紙に、自身が認める記述がある!?

にのまる殿(淀殿)だけの子でよいと思う。

第3章「揺れる母の思い・・・新解釈!大坂の陣」

1615年 大坂夏の陣

兵の四季を上げ徳川に加勢している武将を怯ませるため秀頼の出陣をと願うが…

淀殿は、出陣を拒否
秀吉の子供でない秀頼を出陣させても誰も付いてこない。

淀殿が人質となり徳川軍に退却の交渉をする。

家康軍は、豊臣家を滅ぼすことを決意している多攻撃の手を緩めない。

大坂城が燃える中、秀頼と淀殿は城から逃げ出さずに山里丸に留まり最後の場所になった。

城から脱出した侍女たちは淀殿から
「淀殿不便ヲ加へ、退カシメシ」
侍女たちまで死ぬのは不憫 白を出よ(武功雑記より)

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