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新説!所JAPAN 城郭考古学者・千田嘉博先生 お城ミステリーツアー 第1弾「二条城」

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新説!所JAPAN 城郭考古学者・千田嘉博先生 お城ミステリーツアー 第1弾「二条城」2/3

お城ブーム お城ミステリツアー「二条城」
徳川幕府 成功の秘密”二条城”!?

建てられて間もないころ、江戸初期の洛中洛外図には天守が二つ描かれている!?
他の城の天守を移築した!?
天守は、江戸中期、落雷で焼失
二条城の天守 右の物は、大和郡山のにあったものを二条に運んだ。
秀吉の弟・秀長の居城だったものその後、淀城に移築
伏見城の天守も二条城に移築 二つの天守が同じ時期に建てられていたかは不明

家康といえば「泣かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」
本当は、目的を達成するためなら何でもする人だった!?

なぜ徳川幕府は、260年も続いたのか!?
二条城で分かる徳川家康の裏の顔

1600年頃の江戸は、まだ地方の城下町に過ぎなかった。
天皇のいる絶対的都は、”京都”でした。
二条城の築城は、1603年 徳川家康によって造られたもの

”天守閣” 江戸時代などでは”天守”っていうのが正解
天守は、白の象徴となる高層建築物の事
天守閣は、明治以降に呼ばれた通称

国宝・二の丸御殿の入り口”唐門”は、重要文化財に指定
二条城は、戦以外の目的で造られた城
京都にこのような城を作るという事が天下の政治をコントロールできるいう証になっていた。

1600年 関ヶ原の戦いで勝利し天下人になったと思われがちですが、
豊臣秀頼を支える家臣No.1決定戦
西軍(石田三成・毛利輝元)vs東軍(徳川家康・山内一豊)程度の物だった。

家康が天下人になるには、
大阪にいる豊臣秀吉の息子・秀頼いて豊臣恩顧(豊臣に忠義を尽くす大名)
いつか、また秀頼をたてて家康には向かってくるかはっきりしていなかった。
アンチ徳川家を根絶するという仕事がまだ残っていた。

豊臣恩顧がのこるこの地に天下統一のために造られたのが「二条城」
家康が天下人と心理的にも思わせる仕組みをいくつも取り入れている。

「二条城」は、4つあった。
過去に4回違う場所に建てられていた!?
織田信長が御所の近くに二条城を築城、そして二つ目の二乗城を近くに築城
そのあと、秀吉がとなりに二条城を築城
そして、その近くに家康が二条城を築城

二条城行幸(1626)
天皇を二条城に招きもてなすことで天皇との親密な関係をアピールできる。

信長は、公家との折り合いがつかずに断念
秀吉は、白でなく聚楽亭と名付け天皇を招いたが二条城にに招けなかった。

大政奉還
徳川幕府が天皇に政権を返上

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老舗料亭「萬亀樓」

萬亀樓
住所:

京都府京都市上京区猪熊通出水上ル
店舗情報:食べログ

300年続く老舗料亭

当時の天皇をお迎えした時の料理のメニューが残る。

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